与味に伝わる民話を紹介しています。
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 のんびり弥平
 血の池伝説
 御用猟師と三毛猫
 御用猟師
 しげ茂みつ満神社と滝ノ畝地区
 白はしの尾なし狐
 赤坂大明神
 弘法大師
 かり叉伝説
 竹久狼伝説
   
  血の池伝説

江与味八幡宮が加茂大祭に参加していた頃、「江与味八幡宮の御輿が、加茂総社宮へ向かう道のこの峰(加茂川町豊岡と旭町江与味の境、真地乢(まじたわ))にさしかかった。そして、同行するはずのおおかち大勝宮(あまはかり天計神社の旧称)の様子を聞いたところ、すでに出御で、も早一里位先に行かれたという。一大事。『加茂市場の神事に間に合わぬではないか。延引した責任は氏子だぞ』と口論となり、七人の人が斬り殺された。」(加茂川町教育委員会『加茂大祭』)
 傷害沙汰のくだりは次のようになっている。
「江与味より加茂川町豊岡に越す真地乢に『血の池』と呼ばれる清水溜りがある。昔はこの近くに大きな杉の木が生えていて『真地乢の一本杉』といわれて『血の池』の目印となっていた。
 昔、ここの付近で大喧嘩があった。江与味は加茂郷に属していて、祭礼は加茂市に参加していた。ところが、ある時の祭礼に、酒が入り過ぎて遅れて行ったために、加茂方と大喧嘩になり血の雨が降り、両方に怪我人が出た。この時の引き上げに際し江与味方は、ここで血刀や傷口を洗ったので、その名が出た。この時以後、江与味の御輿は、加茂の祭りには参加しなくなったということである。(旭町誌)

   
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  御用猟師と三毛猫

 昔、大山に御用猟師がいた。鉄砲の名手で、備前藩池田公の狩の案内役をつとめていた。トビを一発で三羽撃ち落したとか、一キロメートル先を走る兎を射とめたとかいろいろの逸話が残っている。
 ある日、猟を終えて帰り道、薄暗い山の中に、らんらんと目が光るものを見た。殿様からもらった一発玉をこめて、光る目をめがけて撃つと、カチンと金属音がした。たしかに手ごたえがあったので、近づいて見ると獲物はいなくて、そこに茶釜の蓋が二つに割れて落ちていた。家に持ち帰り「ばあさん、うちの茶釜の蓋はあるかやー。」と尋ねると、おばあさんは、「のうなったので、今、探しているところじゃー。」と言った。
 持ち帰った蓋を合わせて見ると、ぴったり合った。この家には、古い古い三毛猫がいて、たいそう可愛がられていた。この猫が主人をねらったと思った猟師は、いろりの縁にうずくまっている猫に「お前は今日かぎり、ひまを出す。この家を出て行け。」と言うと、猫は、「ニャー」と悲しそうに鳴くと、庭の口を出て行った。(旭町誌)

   
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  御用猟師

「昔、大山に御用猟師がいた。ある時、殿様が、空を飛んでいるトビを打ってみよと命じた。御用猟師は、寝ころんでばかりいて一向に打とうとしない。
 殿様は、『早く打てよ。』と催促していたが、ついにあきらめて『勝手にせよ。』と怒ってしまった。その時です。御用猟師の矢が鳴ったのは。
 空から三羽のトビが落ちて来た。殿様は、『でかした。だが、それだけの腕前を持ちながら、なぜ早く打たなかったのか。』とたずねた。猟師は、『三羽が一点に交差するのを待っていました。』と答えたそうである。」(旭町誌)

   
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  茂満神社と滝ノ畝地区

茂満神社の祭神は茂満太郎である。茂満太郎は力持ちで、太郎迫(さこ)という所に住んでいた。取り入れのすんだこの地区の農家が悪者どもに襲われた時、太郎が太郎坂から大きな岩をころがしてみんなを助けてくれた。
 以来、地区民は、茂満太郎を神として社(茂満四二五八番地)に祀り、旧暦一月九日に地区民当番で祭典を行うようになったという。後には百姓の神である荒神様も合わせ祀ったが、社地には、二間に二間半の社があり、岡山藩の認めた免税田も三畝十七歩あった。
 茂満神社は、明治十年六月に、江与味八幡宮の末社荒神に合祀され、免税田は個人所有となり、社地のみ茂満組総持ちとして残っている。
茂満太郎がころがしたという岩は二個あって、この岩(二ツ岩四八七四番地)は現在神様として、才の神とともに祀り、茂満神社の祭りとは別の祭りが現在まで続いている。
二つ岩神社の岩は、県道改良工事の時移動しなければならなくなり、重量を測ったら九.三トンあったという。
この祭りには、当家渡しの時、大根を二又に作り、二又の間に酒受けを置き、この酒受けに酒を注ぎ込んで、子孫の繁栄を祈るお立酒という儀式が伝わっている。
滝ノ畝地区の古い墓からうかがうと、この地区は三〇〇年位前にできたようである。明治初期の地神様の石碑には、滝ノ上と刻まれている。滝ノ畝の呼称は明治以後のことであろう。地名太郎坂・種が迫・二つ岩・お祭り三組・茂満など伝説の由来と関連するものがあり、さる廻し屋敷・忠平屋敷など由緒不明のものもある。古老によると、宮の乢には十三戸の家があったが、悪病により全戸がなくなり、墓地だけが三ヶ所残っているという。(旭町誌)

   
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  白はしの尾なし狐

 聳頭山の尾根を少し西に行った一帯、往しき昔には、この道を狭んで集落が存在したと考えられる。これから西にしばらく歩いた所に、「述ガ乢(のぶがたわ)」がある。その南側に「大師」(加茂川町小森地区内)と称える所がある。十年前頃まで数戸が集う部落があった。
 今は、住む人影のない儘に荒廃を続けているこの地に、昔ある日、地方遍歴の途中に立ち寄った弘法大師が、一夜の宿をとったことがあり、その時、この家の主はその夜、「この一帯に白狐が跋扈(ばっこ)し度々人をたぶら誑かし、この辺りの者は難渋している。」と、弘法大師に訴えたそうだ。
 翌朝、大師はこの宿を後に、北へ向かって出発した。やがて「述ガ乢」に差しかかった大師の目の前に、昨夜宿の主から聞いた白狐が姿を現した。道案内でもするかのように、大師の歩みに合わせて前に出たり、後ろになったりして見え隠れに付いてくる。大師はこの時、
 「そうか、腰の弁当に狙いを付けてくる。」と気付かれ、その場に歩みを止め、宿の作った心尽くしの弁当を腰から取りはずし、狐に向かって、
 「差し上げるから持っておゆき。」と差し出されたそうだ。
 大師の前から姿を消して、しばらく機を窺っていた狐は、何処からともなく急に飛びかかり、包と一緒に持ち去ろうとした瞬間に、大師の金剛杖は狐の尾っぽを押さえていた。その時、大師は、狐に向かって曰く、
 「なんじ汝は、見かけは白無垢の毛をもって美しく、仲間からは頼り甲斐があると慕われているかもしれないが、我々から見るとずるがしこく度々人を欺いていると聞く。これでは、やがて人の怨みをかい、汝の棲む所もなくなる。」
と論された上、さらに言葉を続け、
 「ところで、汝に相談がある。・・・これからは人の迷惑になることはしない誓をたて、共に仲良く暮す約束のあかしとして、醜いからだとなるも辛抱する覚悟で、押さえている杖から後ろの尾っぽを、この愚僧にしばらく預けてはくれぬか。ついては、汝が今、くわえている弁当は、持ち帰って仲間同士で食べてよい。」
 すると、大師の言葉が通じたのか、涙を溜めたような顔を振り向いて、大師の目を見つめていた狐がピョンと急に飛び上がった。その後には大師の押さえた杖から後ろの尾っぽが、切れて落ちていた。狐は、切れてなくなった尾っぽを気にかける素振りもなく、大師を振り返りながら、仲間の待つ北側の「白はし」の山へ姿を消して行ったという。
 大師は、狐から預かった尾っぽを懐中から取り出した紙にくるんで、土の中に埋め、その上に石を置いて、懇に祀った後に、此処を発ち去られたとのことである。
 白はしの尾なし狐の話からか、本当に見たという人までがあらわれて、最近まで信じていた者がいた。(旭町誌)

   
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  しげ茂みつ満神社と滝ノ畝地区

滝ノ畝地区から松尾地区へ行く道に赤坂という人里はなれた所がある。昔々、この場所へ宮の乢村の若者が木こぎに行っていたそうな。この若者は仕事は大のきらいだが、女は大好きというなまけもので、今日も木こぎに来たものの仕事は進まず、夕方近くなっても背板一杯のこぎも出来なかった。それでも日が暮れるのでそろそろ帰る準備をしていると、1人の美しい娘さんが通りかかった。若者は娘さんを見て日頃の虫が起き、娘さんを襲おうとした。娘さんは、武勇にすぐれた「ちからもち」であったとみえ、たちまちのうちに若者は取り押さえられてしまった。娘さんは、
「私をものにしたければ良く働いて大金持ちに成った後、今一度おいで」と言いながら、お金持ちになる秘伝の書いてあるという一巻の巻物を渡し、手をはなしてくれた。おそろしさにふるえながらわが家に逃げ帰った若者が、巻物を開いて見たところ次のように書いてあった。「金のなる木の育て方、やる気という木と根気という木を接木して毎日なにくそ(努力)という肥やしを一生懸命かけると立派な金のなる木が育ちます。私は赤坂大明神」。
山で出会った娘さんは赤坂大明神の化身であり、この若者を立直らせるために現人として現れたということであった。これ以来、若者は毎日せっせと働くようになり、良いお嫁さんに恵まれて、幸せに一生を送ることができたという。
※木こぎ=山に枯木を取りに行くこと  背板=枯木を集め、荷造りしたのを背に負って帰る道具(旭町誌)

   
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  弘法大師

T 昔、江与味の畑の地区へ弘方大師が巡回され、ある農家へ立ち寄り水を望まれた。
  この農家の人は非常に親切な人で、新茶をほうじてお茶を差し出したとこ
ろ、大師は大変お喜びになり、なんでも望むものを与えようと申された。農家の人は喜んで「それでは、この辺は何分けわしい山里のこと、水に大変困っているので水をお願いします」とお願いした。
 大師は呪文をとなえ、持っていた錫杖で大地をつかれた。するとたちまち、地下からきれいな水が湧き出てきて池となり、みんな大助かりだったという。この池は現存するそうだ。(旭町誌)

U 昔、秋の日も暮れようとする頃、江与味の寿老へ弘法大師が巡回され、ある農家へ立ち寄って水を一杯望まれた。この農家の人は親切な人で、大師にお茶とともにこの地方特産の柿の実を差し出した。大師は大変喜ばれ、なんでも望むものを与えようと申されたので、農家の人は、「この辺には畑の岸から竹のささの子が生えこんで困るので、これを生えないようにしてほしい」とお願いした。
  大師はさっそく、このささ竹を封じこめてくださり、農家の人々は大変助かったこのこと。現在でもこの寿老の地区には畑にささの子は生えないという。(旭町誌)

V その昔、土用の丑の日、江与味のある部落の若者三人が真地乢を超え、加茂川町豊岡下の恩木川へ鰻釣りに行った。その帰り道、真地の坂へ差しかかった頃から夕立に合い、雷雨に見まわれた。そこで三人は真地乢のある大師堂に立ち寄り雨やどりをしたが、夕立が長くて退屈した。
  三人の誰言うとなく、「屁こき競争をやろう」ということになって、大師様を祭ったお堂という場所がらもわきまえず、大きなおならをし、笑い転げていた。すると、突然堂の中が真赤になり、そのとたんに三人は気を失って倒れた。どの位の時間がたったものか、気がついた時には雨はあがり良い天気になっていた。
  しかし、恩木川でとった魚は一匹もいなくなり、腑抜け面の三人が帰り仕度をして外に出てみると、そばにあった杉の大木が黒焦げになっていた。雷が落ちたのである。三人は命のあっただけでも良かったとほうほうのていで帰宅したと言う。その話を聞いた村民達はそれ以後、神社仏閣の前、大師堂等ではみだらなことはつつしむようになったそうな。(旭町誌)

   
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  かり叉伝説

第1話
  昔、江与味の村頭という所に、落武者でもあったのか、いずこやらからきたという有力者がいたそうだ。その有力者が召使いに、「お前は弓の名人で狩りが大変上手である。向こうに見える本宮山(加茂川町の山)の山頂に大きな獲物がおるようだからあれを取ってこい。」と命じた。
  召使いは色々思案の末、村頭の向いの旭川ぞいの山頂と松尾の後にある龍王山(落合町境の山)に股がり、弓を力いっぱい引きしぼり、"ひょう"とばかりに矢をはなって無事獲物をしとめることができたそうな。その時、股がったということが、その後いつとはなく反対に言伝えられ、「かり股」となったとさ。(旭町誌)

第2話
 昔、かり叉の上の地区(現在の畝・滝ノ畝・落合町吉)の人は、かり叉坂を通って浜(川戸)へ荷物を出したり買物に行ったりしていた(浜へは昔高瀬舟が到着していた)。
 ある時、近所どうしの若者と二十才位の娘さんが浜へ行っての帰り道、この坂へ通りかかった途中で、長い坂なのでいっしょに休けいし、色々世間話に花をさかせている内に、以前よりあまり嫌いではなかった二人のこととて、いつの間にか濃い男女の仲となり、やがて結婚して仲の良い夫婦の見本となり、いつからとなく地域の人はこの坂を「かり叉」と言うようになったそうである。(旭町誌)

第3話
 昔々、江与味のある所に分限者がいたそうな。ある時、その分限者の家へ修験者がやって来て屋根を眺め、「お宅の屋根には赤ちゃんの姿が多く見える。赤ちゃんは屋根の上をはっているが奥さんが少し身をつつしまなければ、この赤子のたたりで家はいくら財力があってもなくなってしまう。」と言ったそうだ。
 その後、、この分限者はまもなく衰微して貧乏してしまったという。ちなみに、この奥さんは生活に苦がないので色情にうつつを抜かし、今でいう不倫を重ね、たくさん出来てくる子供を堕胎していたと言う。つまり女のみだらなさまを注意する話である。

  以上の「かり叉伝説」の地は、一名雁股山ともいわれている。(旭町誌)

   
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  竹久狼伝説

昔、ある冬のこと、兎を追って竹久へさしかかった猟師がいた。それまで獲物を追って猟師の先を行っていた犬が急に鳴声を止め、スゴスゴと股間に尾をはさみ込んで、体を震わせながら猟師の足元へすり寄って来た。これを見た猟師も突然「金縛り」に遭った状態に襲われ、足が一歩も動かずその場に立ち竦んでしまった。
  その後、どの位時間が経ってからか、ようやく気がつき、犬も猟師も一目さんに麓めざして走って帰ったそうな。後日、この猟師は「わしも三十年近く猟をするが、あの時ほどおそろしかったことはなかった。これはきっと姿は見せなかったけれども、話に聞いていた竹久の狼であったのだろう」と話していたそうな。(旭町誌)

   
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